空気が季節の移り変わりを教えてくれる。

 早朝の川辺には視界が遮られるほどの濃い霧が立ち込めていた。

 その中を歩いていると、どこからか水滴が落ちてきた。樹雨だろうか。だがこの川辺の道には、電柱こそあれど木々などない。その水滴の正体が気になり、私は足を止めた。


 霧はゆっくりと形を変えて、まるで生き物のように蠢いている。私の周りを取り囲む霧は、まるで何かを伝えようとしているようだった。

 霧の中に、ふと、小さな光が見えた。それは、霧の向こうにある小さな塔の光だった。

 生まれ出づる光に導かれ進むと、霧は徐々に遠巻きになり、川辺の景色が明らかになる。

 塔の近くには古びた一軒の家が佇んでいた。


 家の前には老人が一人。彼は私を見るなり、にっこりと微笑んだ。

「霧の中から来たのかい?」

 老人は尋ねた。

「ええ、まあ。あの光を見てこちらに……」

 私が答えると、老人は頷きながら言った。

「この霧はね、昔からこの地を守ってきたんだ。霧が濃い日は、この地を訪れる者は少ない。だからこそ、私たちは静かに暮らせる。でも、霧が晴れた日には、遠くからも人が訪れる。それはそれで、また違った楽しみもあるがね」


 老人の言葉には、何か特別な意味が込められているように感じた。

 この地には、霧がもたらす静けさと、晴れた日の賑わいが共存している。まるで自然のリズムに身を任せているような、あるいは季節の移り変わりそのもののような。

「霧は、ただ漠然と広がるわけじゃない。時には人に救いを与え、時には人に戒めを与える。雨と同じようにね」

 老人は言った。


 私は何も答えず、ただ頷いていた。老人はじっと私を見て尋ねた。

「帰り道はわかるかい?」

 私は曖昧に微笑みながら答えた。

「……遠い所から来たもので」

 老人は頷きながら立ち上がった。

「なるほどね。それなら帰ろうとするよりも、どこかへ向かう方がいいかもしれない。いずれにせよここは長居するような場所ではない」

「どこへ行けばいいのでしょうか」

 私は尋ねた。

「この道のずっと向こうに、古い水門がある。その水門が目印だ。きっと君にとっては大切な場所だ。何よりそこは霧が濃い日に訪れるには最適だろう」


 私は老人に礼を言い、道を進んだ。

 道は徐々に霧に覆われていき、前方が見えなくなるほど濃くなっていく。

 霧の中を歩いていると、ついに自分がどこにいるのか分からなくなった。この先に本当に道があるのか疑問に思うほどに。


 ふいに誰かが私の手を掴んだような気がした。

 はっとして振り返ると、そこには一人の少女が佇んでいた。

「この道を進むと危険よ」

 彼女は微笑みながら言った。

 私は戸惑いながら彼女を見つめた。少女は私を見つめ返し、そして霧の先へと消えて行く。

 不思議に思いながらも、私は再び見えない道の先へと歩みを進めた。霧は依然として視界を覆っていたが、進むこと自体への迷いは消えていた。


 どれくらい歩いただろうか。目印の水門は一向に見えてこない。

 どこかへ向かっているのかどうかさえ、確信が持てなくなった。辺りを見回しても、一面の霧に覆われているだけだ。自分の呼吸の音さえも聞こえない静寂の中で、しかし不思議とその霧が心地よく感じられた。


 目の前に小さな背中が現れた。それは少年だった。

「君はどこから来たんだい?」

 私は少年に訊ねた。

「遠い所から来たんだ」

「そうなんだ。霧が深いから気を付けてね」

「うん、あなたもね」

 少年はそう答えると振り返りもせず霧の中へ消えていった。


 私はまた一人になったが、不思議と孤独は感じなかった。

 むしろ心地よい静寂の中で心は安らかに落ち着いていた。

 やがて前方に光が見えたような気がした。その光は徐々に大きくなり、やがて視界全体を覆うように広がっていった。

 気が付くと私は、古ぼけた水門の側に立っていた。濃い霧の先には、まだ見ぬ世界が続いている。その世界を探る旅の途中では、また誰かと出会うのかもしれない、と私は思った。

 だが今は少しばかり休んでもいいだろう。

 私は腰を下ろして、どこへ行くともなく漂う霧の行方を眺めた。

いろはうたう

素敵なものが欲しいけどあんまり売ってないから小説を書いてます

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