其れは舞い散る櫻の様に
子どもの頃、祖母の家で古い写真を見つけた。戦後の喪失感を湛えた里山の風景だ。桜の前に数人が並んで立っている。彼らは時の流れに取り残されたかのように無表情で、その瞳は遠い過去を見つめるガラス玉のようだった。どこか別の時代から無理やり現代に連れて来られ戸惑っているような印象を受ける。祖母はこの写真に何か特別な意味を込めて化粧箱の中に大切に保管していた。
桜には不思議な魅力があるという。その魅力に取り憑かれた人々はしばしば奇妙な事件を起こした。伝承ではなく事実として。
「あの桜は人を狂わせる」と祖母は言った。
「でも、あの桜を伐ってしまおうという話が出たことはないんだよ。なぜだかわかるかい?」祖母の問いかけに私は無言で首を振った。
「あの桜が人を狂わせるのは、あの桜が散るときなんだよ」祖母は静かに語り始めた。
「散るときに?」私の問いに祖母は深いため息をついた。
「そう。花が咲いている時は、まだ大丈夫なんだ。でも、花が終わって葉桜になると、人は少しずつ狂ってくるんだよ。だから、花が咲いているうちに伐ってしまわないといけないんだ」できるものならね、と祖母は自嘲気味に言った。
「覚えておくんだよ。花が終わって葉桜になったら、早めにその木を切り倒すんだ」と祖母は言った。
「そうしないとどうなるの?」
「手遅れになる前に手を打つんだ」と祖母は言った。「手遅れになると、もう元に戻れなくなるからね」
私は不安になって訊ねた。
「手遅れってどういうこと?」祖母は私の質問には答えなかった。
「それに、桜を伐った後はどうするの?」
私がそう訊ねると、祖母は少し考えてから答えた。
「それはね――」
◆◆◆
祖母の言葉の続きを私は覚えていない。祖母は数年前に認知症を患い一週間前に他界した。葬儀の日、桜が散り始めた。祖母の言葉が蘇った。「あの桜が人を狂わせるのは、あの桜が散る時なんだよ」と。そして彼女の言葉は呪いのように私たちを蝕み始めた。私たち家族は少しずつ狂い始め、目に見えない力で家族の絆は綻びていった。それは静かで緩慢で確実な変化だった。
ある夜、私は夢を見た。夢の中で私は、満開の桜の下にいた。空は晴れわたり、風はそよとも吹かない。それなのに桜の花は散り続けている。はらはらと花びらが舞い散り、地面を覆っていく。やがてその桜吹雪の中に人影が現れた。私はそれが誰なのか知っている。それは死んだはずの祖母だった。祖母は桜の木の下で舞い散る花を見上げている。
「おばあちゃん」と私が呼びかけると、祖母はゆっくりとこちらを振り返った。
「やあ」と祖母は言った。「よく来たね。さあ、こっちへおいで」私は言われるままに、祖母の側へ歩いていく。
「この木には不思議な力があるんだよ。人を狂わせる力がね」
「桜が散るときに人を狂わせるんだよね」私が言うと祖母は首肯した。
「まだこれくらい花が残っていれば大丈夫さ。でもこの桜が散るときにこそ、人を狂わせるのを忘れちゃいけない」
「じゃあ、花がもっと散ったら、みんなおかしくなっちゃうの?」
「そうだよ」と祖母は言った。「本当はね、この桜が咲く頃になると、もう人は少しずつおかしくなり始めているんだよ」
私は祖母の話を聞いているうちに怖くなってきた。桜が怖いのではない。花が散り、葉桜になっていくことが怖かったのだ。
「この桜はね、私たちの思い出なんだ。私たちが一緒に過ごした日々の象徴なんだよ」と祖母は呟いた。その瞳は遠くを見つめ、何かを語ろうとしているかのようだった。私は祖母が何を言いたいのか理解できなかったが、彼女の言葉を受け入れたかった。
「この桜が散る時にはね、みんなおかしくなっちゃうんだよ」と祖母は言った。
「だから、その前に早く切り倒さないといけないんだよ」と祖母は言った。
私は祖母の言葉を聞き、写真をじっと見つめた。
「でも……切り倒しても大丈夫なの?」と私が尋ねると、祖母は優しく微笑んで答えた。
「大丈夫だよ。この桜が咲いている間はまだ間に合うからね」言い終えると、祖母は黙って目を閉じた。
私が言いたいのはそういうことではない。だが私はそれ以上何も言えなかった。
そこで目が覚めた。
◆◆◆
悲しい夢を見た気がする。起きたとき私の頬は涙で濡れていた。
窓の外を見ると、雨が降っていた。風が木々を揺らし、花びらが舞っている。
まるで夢で見た光景のようだった。
私は祖母のことを思い出していた。彼女が最期まで私に言いたかったことは何だったのだろう。
私の家族は変わったが、それは本当に桜のせいなのだろうか。葬儀が一段落すると家族は桜を伐り倒し始めた。それこそ狂ったように。
私もその一人だった。桜が散り終わるまでに早く切り倒さなければ、手遅れになると思ったからだ。しかし、それはただの自己満足に過ぎなかったのかもしれない。なぜなら、桜はすでに葉桜へと変わっていたからだ。
0コメント