現象世界
かつて一匹の獣がいた。
獣は懸命に物語を造り続けた。
それは獣自身の物語であり、そこは獣が存在すべき本来の場所だった。
獣はこう考えた。私はここにいる。「しかし」も「ただし」も伴わず。たとえ現実には自らの身体が存在せずとも、思考の主体としての私がここに存在している。それは全く疑いようのない事実だ。
だが私はどこにいるのだろう。私が存在している「ここ」とは「どこ」なのだろう。
獣にはその答えがわからなかった。
自らが思考の主体として在ることが自己の存在を確定する根拠となるのであれば、思考の立つ瀬が自らの居場所を示す道標になるかもしれない。獣はそう考えた。
しかし獣には何が自分自身の思考なのか、それがわからなかった。
そもそも自分とは「誰」なのか。これまでに関係した事物、読んできた本。それら外来の思考と、獣が獣として存在し始めた時に内在していた思考との境界線は、いまや砂埃をかぶり獣の目にはひどく曖昧に思えた。
無論、他者からいかなる影響も受けず自らを成熟へと導きうる者など存在しない。存在するならば、それはたぶん孤独な神だ。神でなければ傲慢で思慮に欠けているだけだ。
だから獣は他者からの影響を否定したわけではない。だがある価値観が別の価値観の肯定であり否定に結びつくとして、では原初に存在した価値観はいかなるものだったのか。それこそが自分本来の思考だったのではないか。獣はそう考えた。
そして獣は物語を造り始めた。
獣はこれまでに触れた雑多な思考及び価値観を、自らの内部で今一度消化・処理し、形式に統一を施し、系統的な整理を試みた。あるものは残し、あるものは綻びを繕い、またあるものは見捨て、踏みにじった。
それは白紙に新たな世界を描く行為だった。あらゆる思考を「自身」という場所を中心に相対化した。それらは無意識下で統合され、獣の中に新たな大地を生み出した。
たぶん獣にはわかっていたのだ。かつて獣が獣自身であり始めた頃に存在していた場所が、永遠に失われていたことが。獣がかつての獣自身に戻ることはもう叶わないのだということが。
自覚的に選択肢を選び生きられる存在は幸福だ、と獣は思った。
既存の価値観に囚われず、自らの欲するところに従い主体的な選択を為す。幾筋かに分岐した道の中、惑うことなく自らの進むべき道を選び、確信と共に歩める存在。その存在はきっと「自分」という「誰か」であり続けるだろうし、それゆえどこかへ辿り着くだろう。
獣はつまり新たな自己を創造しようとした。
本来の自分、あるがままの自分に戻ることはできない。そしてかつて獣が存在した場所に帰ることも叶わない。そこは獣が獣自身である限りにおいて存在し獣もまたそこに居続けられる、そんな場所だったから。獣にできるのは自らの所在を確定し存在を認識し、そこに新たな居場所を構築する、それだけだった。
獣は自らの世界を外界から隔離した。もう二度と自分を見失わないように。居場所を奪われないように。他者の思考を自己に内在する思考の類型とし、自身の世界の内側で全ての事象を説明しようとした。
そしてその試みはある程度まで成功した。獣は獣自身を産み落とし、自らの居場所を造り出した。それは決して損なわれることのない、その機能を有した世界だった。
全てを新たに定めた世界で、けれども獣は自分を見失っていた。なぜならそこには獣以外に何者も存在しなかったから。だから獣は「誰か」であることができなかった。獣の楽園には自分が「誰か」であることを確認する物差しが存在せず、ゆえに獣は獣自身でしかなく、と同時に獣自身ですらない、「誰でもない」存在だった。
だから獣は物語を造り続けた。
月も星も夜空を照らさぬ暗闇の中、獣は磁石も持たず砂漠を彷徨い孤独な周回を重ねる。
どこへも辿り着けぬままに。
どこかへ辿り着くことを願い。
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