不貞愁訴

 久しぶりに会った恋人が左手の薬指に指輪をはめていたので、ぼくは一瞬ぎょっとする。

「どうしたのそれ」と尋ねると彼女は言った。

「もらったの」

「誰に?」とぼく。

 指輪をまじまじと見るけれども、まったく見覚えのないものだったのだ。ブランドロゴも彫られていないし、宝石がはまっているわけでもないし、変わったデザインというわけでもない。小さな銀色のわっかの無骨な代物だ。

「別の恋人とかからじゃないよ」と彼女は言うのでぼくはますます困惑して「え?じゃあ誰から」と言うしかない。

「ずっとまえに知り合った人から」と彼女は言った。

「ずいぶん前にもらったものなの?」

「まあ、うん、そう」と彼女はうなずく。

 それからもしばらくのあいだ彼女は考え込んでいて、これはもうこの話をするのはやめた方がよさそうだなと思ったので、

「まあその指輪のことも含めてあとで詳しく聞くよ」とぼくは言った。


 それでその日ぼくたちは久しぶりにデートをして、そのあと彼女の部屋に行ったのだけれども、彼女はどうも上の空なのだった。部屋に着いてからもなにか考え込んでいる様子で、ベッドの上に座って壁のほうばかり眺めている。ぼくも隣に座っていたが間が持たないし気まずくて仕方がないのでテレビでも付けようかと思ったところで、彼女がぽつりと呟いた。

「これどうやって外すのかな」

 見ると彼女を指輪を眺めながらくるくる手首を回している。どうやら自分ではどうやっていいのかわからなかったらしく、ぼくに尋ねているのだった。

「貸してみて」とぼくは彼女の手をとり薬指にはまったリングを観察する。

「外し方わかんないの?」

「うん」

「貰ったときに聞かなかったの」

「……うん」


 それからしばらくのあいだぼくたちはベッドの上に座ったまま黙っていたが、ぼくが退屈してあくびを噛み殺していると、それにつられて彼女もあくびをした。それでぼくは「コーヒーでも淹れようか」と立ち上がろうとしたところで、彼女が指をきゅっと絡めて離さないので、どうしたものかなあと思いながらまたベッドに腰掛け天井の染みを数えていると、彼女が言った。

「退屈だったら帰っていいよ」

 別に退屈だったわけではないけれども恋人にそう言われてしまってはしかたがないので、わかったじゃあ帰るよと言って立ち上がると、彼女はぼくの手をぐいと引いてもう一度座らせた。そして自分の隣に座らせたあとでぼくをぎゅっと抱きしめて、

「ごめんね」と言ったのだった。ぼくはそれで彼女が悪いわけでもないのに謝っているのだということを察したので、なんだか気の毒になってきて、そのまま彼女のしたいようにさせておく。


「なんで指輪を外したいの」とぼくは聞いた。

 すると彼女は黙ってしまったので、ぼくは黙って彼女の返事を待つ。

「外さなきゃだめなのかな?」と彼女がつぶやく。

「いや、そういうわけじゃないけど」ぼくにはわからない。

 彼女はぼくの体に回した腕にぎゅっと力を込める。まるで小さな子どもみたいだなあと思うけれども、もちろんそんなことを口に出したりはしない。

「……でも、これくれた人ね、わたしがこの指輪をしてるのを見て、すごく嬉しそうだったから」

 それでその指輪を外すわけにはいかないと思ったんだよ、というようなことをもにょもにょと言ったあとで彼女はまた黙り込んでしまう。


「コーヒーでも飲む?」と聞くと、彼女は腕の中でうなずいたような気がしたので、ぼくは立ち上がってキッチンでコーヒーを入れる準備をする。「砂糖はふたつにする?」と聞くと、またもにょもにょとうなずく。彼女の声は小さくて、耳をよせてやっと聞こえるくらいだったけれども、でもそれで彼女がなんと言ったのかわかるのは不思議なことだなと思う。

「指輪を外さなきゃいけないときが来たら外すし、そうじゃなければずっとつけておく」と彼女は言った。

 ぼくは電気ポットでお湯を沸かしながら、二つのコーヒーカップにインスタントコーヒーを入れる。二つのカップにお湯を注ぎながら彼女の言葉の続きを待っていたが、結局それきりで彼女は口を閉ざしてしまったので、ぼくもそれ以上なにも聞かなかった。部屋中がコーヒーの香りで充たされていくと、彼女はぼくの側まで歩いて来て「指輪を外して」と言った。

 ぼくは彼女の指からそっと指輪を抜き取ると、テーブルの上に置いた。それから自分と彼女のぶんのコーヒーカップを持って一緒にベッドに戻り、一つを彼女に手渡す。

「砂糖はひとつだよね」うん、とうなずく彼女の表情はさっきよりもだいぶ柔らかくなっているような気がしたのでぼくは安心した。

 それでぼくたちはしばらくのあいだ黙ってコーヒーをすするのだった。

いろはうたう

素敵なものが欲しいけどあんまり売ってないから小説を書いてます

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