紫陽花の季節

 紫陽花は静かにその季節を終えてくすんでいく。梅雨明けが近づいていた。吹く風はどことなく熱を帯びている。道には夏の訪れを感じる濃い影が落ちていた。


 その影は、まるで何かを探し求めるように、よたよたと動いていた。ペンギンみたいだ。私は不思議な影の動きに惹かれて、足を止めて観察した。影は不規則に変形しながらも、一定のリズムで拡張と収縮を繰り返している。まるで呼吸しているみたいだ。


 私はその影が何を意味しているのか理解しようとしたが、辺りを見回しても答えは見つからなかった。何か特別なことが起ころうとしているのかもしれない。私はその影を追いかけることにした。


 影は街の喧騒を抜け、静かな住宅街を通り過ぎ、やがて小さな公園へと辿り着いた。公園には古びたブランコと滑り台があるだけで、人の気配はなかった。影はブランコの一つに座り、そこから動かなくなった。


 私はブランコに近づき、そっと手を触れた。ブランコはゆっくりと動き始め、きしきしと錆び付いた記憶のように揺れる。ぼんやり眺めていると、私の頭の中に様々な記憶が浮かんでは消えた。幼い頃にこの公園で遊んだ記憶、友達と笑い合った記憶、そして、忘れてしまいたい恋の記憶まで。


 ブランコをこぐ影が、私の忘れ去った思い出を、ゆらゆらと刺激する。しばらくそうして、ブランコを押したり、揺れるのを眺めていたが、いつしか影は夜の闇に溶けていた。まだそこに座っているのかもしれないし、もうどこかへ行ってしまったのかもしれない。私にはわからなかった。


 公園を出て、私はいつもの道を歩き始めた。臆病な風が行き場なく足下に絡みつく。色あせた紫陽花の花びらは、風に吹かれて私の足元をかすめていった。それら一つ一つが私自身であり、また記憶の欠片のように感じられた。


 立ち止まり空を見上げる。夜空は遠く高い。大きな雲が一つ、静かに浮かんでいた。その雲は不思議な動きをしており、まるで何かを伝えようとしているかのようだ。雲の形をじっと眺める。シロクマみたいだ。道端には、夏の花たちが色とりどりに咲き誇り、どこからか笑い声が響いていた。夏の夜にはときどき魔法がかかっていると思う。


 しばらく歩くと小さなカフェがあった。そのカフェは、私がかつてよく通った場所で、忘れられない思い出が詰まっている。私は迷わずそのカフェに入った。カフェの中は、いつも穏やかな音楽が流れ、心地よい香りが漂っている。注文したコーヒーが運ばれてきたとき、カフェの壁に小さな絵が飾られていることに気が付いた。それは紫陽花の絵だった。まるで止まった時間のように、色鮮やかで美しかった。


 私はカフェを出て、再び歩き始めた。好むと好まざるとに関わらず、日常の中には見過ごしがちな、小さなおせっかいが潜んでいるようだ。夏の夜のぬるい風が通り過ぎる。私は一歩を踏み出す。紫陽花の季節は終わり、新しい季節が始まろうとしていた。

いろはうたう

素敵なものが欲しいけどあんまり売ってないから小説を書いてます

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